人間はみんな「ついていない」のだろうか
人間には、ついている人とついていない人がいるのだろうか?
最近、私は次のような言葉を聞いて、思わず私はそう思わないと否定してしまったのだが、
「人間って、自分の思ったとおり生きていけませんよね」とか
「人間、結局はついていないことのほうが多いのではないかと思う」
という言葉を使う人は、結局、物事を常に否定的に見てきているから、他の人と同じことをしていてもマイナスイメージ(ついていない)にとらえるのではないかと思うのである。
私は基本的に、自分のことを運がいい人間だと思っている。
今の自分に足りないことや、もっと勉強しなければならないことに日々出会い、その解決方法を、周りの人が親切に教えてくれているような気がするからだ。
とはいっても、それは常にやさしい言葉で教えてくれているわけではない。
人によっては、そんなに怒鳴らなくてもいいのではないかと思うような言い方をしながら、真剣に注意してくれる人もいる。
その注意する方法が、あまりにもグサッと心をえぐるような方法であっても、その中に自分にプラスになる言葉が隠されているのならば、その部分だけチョイスしてストックしていくような気持ちを持てばいいのではないだろうか。
私は中学2年生まで、自分で自分のことが信じられない人間だった。
真剣、「自分はこの世に生まれてこないほうがよかった」とか「私は必要とされない人間だ」と思い込んでいたから、リストカットに近いことも何度かしたことがある。
そのほとんどの理由は、母親が私のことを認めてくれないからというものだったが、
自分の心を閉ざしている時には、どんなにいいチャンスが巡ってきても、それがチャンスだということに気付かない。
その、チャンスを取り逃がしてばかりいる状態を、「ついていない」というのならば、それは、その人の気持ちの持ち方で解決できる問題ではないかと思うのである。
確かに、自分の思い通りに生きていける人間は少ないかもしれない。
でも、自分の生き方をしっかりと見据えて生きている人はどれほどいるだろう。
むしろ、自分の生き方がわからないまま生きているにも関わらず、他人のいいところばかり情報で入ってくるものだから、自分だけがついていないような気になったいるのではないだろうか。
私も、時には自分の中で処理できない出来事に悩まされる時がある。
でも、人生の中で起こるすべてのことが、絶対に自分を成長させるための出来事だと信じているから、たとえどんなにつらいことだって一時的なこととして我慢できるし、
むしろ、自分と考え方が違う人間に出会うからこそ、毎日が楽しいと思える。
私は今年、
私のすることなすことに口うるさく注意してくる人と縁があるそうな。
その人は誰か予想はついていますが、
その人と出会った理由は、別のところにあるように思っている。
それは、その人が私の母親にそっくりということ。
私は、小さい頃から母親が嫌いだった。
でも、自分が“生”を受けた人を否定するということは、自分自身を否定して生きていくことになるのだそうで、私は、結局自分の一部を否定しながら生きてきたらしい。
中2の時に、私はやっと自分を認めてあげられるようになったものの、その実、根本的なところを治せないままいい歳になってしまった。
でも、本当の意味でステップアップしていくには、母親を認めるということができなければいけないのだろうなと薄々気付いていたので、これをいい機会として、物の考え方に幅を持たせられればと思っている。
そう、
人間はいつからだって新しい自分を生きられるし、「ついている」自分に変身できるのだ。
だったら、光輝く眩しいところにばかりに目を奪われるのではなく、影の部分の中に光が射す瞬間もしっかり捉えるようにしたほうが得だと私は思う。
最近、私は次のような言葉を聞いて、思わず私はそう思わないと否定してしまったのだが、
「人間って、自分の思ったとおり生きていけませんよね」とか
「人間、結局はついていないことのほうが多いのではないかと思う」
という言葉を使う人は、結局、物事を常に否定的に見てきているから、他の人と同じことをしていてもマイナスイメージ(ついていない)にとらえるのではないかと思うのである。
私は基本的に、自分のことを運がいい人間だと思っている。
今の自分に足りないことや、もっと勉強しなければならないことに日々出会い、その解決方法を、周りの人が親切に教えてくれているような気がするからだ。
とはいっても、それは常にやさしい言葉で教えてくれているわけではない。
人によっては、そんなに怒鳴らなくてもいいのではないかと思うような言い方をしながら、真剣に注意してくれる人もいる。
その注意する方法が、あまりにもグサッと心をえぐるような方法であっても、その中に自分にプラスになる言葉が隠されているのならば、その部分だけチョイスしてストックしていくような気持ちを持てばいいのではないだろうか。
私は中学2年生まで、自分で自分のことが信じられない人間だった。
真剣、「自分はこの世に生まれてこないほうがよかった」とか「私は必要とされない人間だ」と思い込んでいたから、リストカットに近いことも何度かしたことがある。
そのほとんどの理由は、母親が私のことを認めてくれないからというものだったが、
自分の心を閉ざしている時には、どんなにいいチャンスが巡ってきても、それがチャンスだということに気付かない。
その、チャンスを取り逃がしてばかりいる状態を、「ついていない」というのならば、それは、その人の気持ちの持ち方で解決できる問題ではないかと思うのである。
確かに、自分の思い通りに生きていける人間は少ないかもしれない。
でも、自分の生き方をしっかりと見据えて生きている人はどれほどいるだろう。
むしろ、自分の生き方がわからないまま生きているにも関わらず、他人のいいところばかり情報で入ってくるものだから、自分だけがついていないような気になったいるのではないだろうか。
私も、時には自分の中で処理できない出来事に悩まされる時がある。
でも、人生の中で起こるすべてのことが、絶対に自分を成長させるための出来事だと信じているから、たとえどんなにつらいことだって一時的なこととして我慢できるし、
むしろ、自分と考え方が違う人間に出会うからこそ、毎日が楽しいと思える。
私は今年、
私のすることなすことに口うるさく注意してくる人と縁があるそうな。
その人は誰か予想はついていますが、
その人と出会った理由は、別のところにあるように思っている。
それは、その人が私の母親にそっくりということ。
私は、小さい頃から母親が嫌いだった。
でも、自分が“生”を受けた人を否定するということは、自分自身を否定して生きていくことになるのだそうで、私は、結局自分の一部を否定しながら生きてきたらしい。
中2の時に、私はやっと自分を認めてあげられるようになったものの、その実、根本的なところを治せないままいい歳になってしまった。
でも、本当の意味でステップアップしていくには、母親を認めるということができなければいけないのだろうなと薄々気付いていたので、これをいい機会として、物の考え方に幅を持たせられればと思っている。
そう、
人間はいつからだって新しい自分を生きられるし、「ついている」自分に変身できるのだ。
だったら、光輝く眩しいところにばかりに目を奪われるのではなく、影の部分の中に光が射す瞬間もしっかり捉えるようにしたほうが得だと私は思う。
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